昭和44年03月09日 朝の御理解
御理解80節の、年寄りを大切にせよという御理解ですね。
この中のその途中途中の所から、頂きたいと思います。若い者でもというところがありますね。1,2,3、4行目。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよいと。信心する者は、よう心がけておるがよい。昨日の朝の、御理解の中にね、神徳を受けよ、人徳を得よという御理解を頂きましたね。
信心させて頂く者の心得として知っとかなければならんという意味において昨日頂きました。神徳を神格、人徳を人格という風に頂きましたね。今日ここんところですね、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになると。不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。人格というても、この信心のない者が言う人格とは違った意味でしたね。いわゆる、変人になれと、ね。
変人とは直い事と仰せられる、意味においての人格です。いわゆる信心させていただく、神様からご覧になったやはり人格なんですね。あの氏子は間違いがないという風に、神様が認めてくださるところの人格。そこであの思うんですよね、そのう、不都合、不行き届きができると、このいわゆる人格が受けられない事がわかります。ね、だんだん敬うてくれぬようになる。
五へん十ぺんはね、まあお詫びすいません、すいませんでいいかもしれんけれども、そうすいませんばっかりではいけない。このところのですね、不都合不行き届きとという事が、無いように心掛けさせてもろうて、もしできたならばどんなに例えお詫びしにくかっても、神様にお願いをして詫びる、お詫びをすると、改まってお詫びをするという事が大事なんですね。
先日もある方がお参りをしてきて、経ざい的にいろいろ、困っておられます。それでその取引の銀行からも、もう取引を止めてくれと銀行の方から何回もそう言われる。その度に無理を言うて、まあつなぎ、つないでおるけれども、もう先日という先日は、ここえ見られた時は、もういよいよ銀行の方から、きっぱり断られた。まあ商売人ですから、銀行とのそうした取引が、信用問題でもあると同時に。
いわば、いよいよ首が回わんようになってしまうわけですから、そのことのお願いにみえられましたからですね、私もういっぺんお願いをしておくから、まあいうならもう、いよいよきっぱり断られたのであるから、まあ、あけはせずにとにかくお詫びだけに言って、もういっぺんお願いしてみなさいと、言うておりました。翌日行かれました。もうそれでまあ、そのように言われるなら、なら今度いっぺんですよという風に、あのう言われて、またようやくつなぐ事ができたとこう言うのです。
それはね、やはり約束を守らない、不都合、不行き届きができるから、断られるのですよね。私共がそういう不都合不行き届きというものが生活の中に、そのこれは対人間の場合もありましょう。いわゆる実意を欠、丁寧を実意丁寧を欠く。信心しておる者とは言われないような実意丁寧を欠いで、それがだんだん重なって、その人からもあの人はと思うておったけれども、もうあの人は当てにはならん頼りにはならん。
いやもうあの人は信用しておったけれども、もうあの人は信用にはならんと言う様に、信用を落としてしまう。もういわゆる人格はもうゼロになってしまう。そう言う様な事がですね、重なって私は神徳が受けられる事はないと思うね。ですからここんところをですね、確かにこのもう本当に、どうもすみませんとこう簡単に言えれるすいませんなら誰でも言うけれどね、お詫びに行きゃあもうまた必ずやかましく言われる。
お詫びに行きゃあいよいよ恥ずかしい思いをしなければならん。そこがなおざりになる、それが不都合になる。ですからここんこういうところをですね、私は本当にもう本当に修行と思うてお詫びに行く。それはね、もうその事だけじゃないのです。神様がご覧になる人格なのですから。ね、人徳とは。信心でいう人格というのは。ね、神様がご覧になる人格ですから、ね、
その事が本当に修行としてまたでき、本当にその事が、不都合不行届きのところを詫びて、詫びていくというところをですね、神様認めて下さるんじゃないでしょうかね。これは私が、もう経済的にいよいよにっちもさっちもいかんようになってからです。当時現在は、平和台の前から、こう入ったとこ辺りに薬局しておられます。松崎さんといいなさる。その方が千代町の何とかっちいう所、そのちょっと引っ込んだ所におられましたが、その当時、商売上の取り引きのあった方でした。
非常にまあ、向こうからも良いお得意さんであった時代もあった。また私としても大変良い御得意さんであった。ですからもう本当にもうそれこそ、私のとこに若い方達が何人もおりましたからあのう、お正月なんかの時には餅つきの加勢にでん行くちゅうぐらいに心安うまあしておった仲であった。ところがだんだん商売が不振になってきた。不振になってくりゃどうしてもそこに嘘でも言わにゃならんようになってくる。
いわゆる真っ赤な嘘である。根もない嘘を言わなければならん。段々嘘が重なってくると、大坪さんなあ金光様の信心しおるとに、まあ私くしは大体その方をある教会にお導きまでした人でした。して言うことはやはりあの立派な事を言うわけですよね。けれどもそのこの口で言う事と実際が吊り合わなくなってきた。初めの間はまあ人間じゃけん間違いがあるという風に受けてもらったけれども、それが度重なりますからもう大坪さんが言う事あ、当てにはならん頼りに、当てにはならんという事になった。
ですから商売も勿論できんようになった。もうその頃にはずいぶんそこに借金ができておった。ね、もう私くしのその時分の生き方としてはですね、もうほうからかしとくより他に無かった。放任しとくより他に無かった。ね、そのころはもう神様から色々とお知らせを頂いてお商売もできなくなり、神様のお言葉通りに、まあ動いておる時代にであった。それでそのまあ私くし人間的な考えではです。
もうそげんそれこそ鉄面皮じゃないからね、お互いが。そんなにあつかましゅうそうたびたび嘘ばっかりをです、いつ払いますいつ払いますと言うて、そのもちろん集金に来て頂くような事もいっぺんも無かったけれどももうその都度都度にです、一週間後に払いますと言うとって、一週間後に払えないと一週間後に断りにいかなきゃならん。神様がぜひ行けと、まあそれもね、五へん十ぺんは行きましたよ。
もう行くたんびんにそれはそれは、もうだんだんえげつうなってくるんです。もうあんたばっかりは見損のうた。もうその度にはもう金光様の信心まで、金光様まで信用せんとまで言われる。それはもう奥さんが、もうそげんあなたんごと言いなさらんでんと言われるぐらいにえげつのう言われた。もうとにかくそのえげつない。ね、それでもやはり神様は断りに行けと仰った。
もう、終いの頃にはですね、その方の前まで行くと足がぴたっと止まってしまってね、中に入られんとですけん。ね、神様に一生懸命お願いして、その、その人の前まで行きますけれども、足が動かん。またあの人から、あの、いわゆる苦虫を噛み潰したような顔でやかましゅう言われる事がじゅつないわけです。その人の家のぐるいをね、ぐるうぐる何回回ったか知れません。入りきらん。
そりゃあもう本当に借金負うてみた者じゃなきゃ分からんです。しかもそれを断りに行く気持ちというものは、もう、ね、ただ、ね。もうそういう時をですね、神様は決して横着をさせてはおられなかったという事ですね。私の、当時のですよ、私の考えですね、もう私、の、私はもうだいたいが商売人ですから、うそも上手だったし、まあ、駆け引きも上手だったんです。
ですからその自分の私の人格から言うならです、もうほうからかしとくが一番良かです。ま取りにきたならばいい加減な事を言うときやそれで、まあ逃げ隠れしたっちゃ良かったんですけれどもです、ね、神様がそれを許されなかったという事。どうでもやはり、一週間なら一週間後にと払いますからと、こう約束しておるならそれも勿論払うときからあてがあるわけじゃあないけれどもです、一週間後に払えるわけでもないから、また一週間たったら断りいかにゃいかん。ね、
その断りに行く事の苦しさというものはね、そりゃあ本当に借金を負うて平身低頭断りを言うもんで、言うた身の者じゃなからにゃあわからん。けれどもね今から私考えてみますとです、ははぁこういうことがです、不都合不行き届きを作らん事だと思いますね。信心で言う、昨日の人格というて人徳という事。人徳というのは普通信心のない者がいう人徳とは違うという、御理解だったですね、昨日の朝の御理解は。ね、
いわゆる神様が御覧になる認められる人格なんですよ言わば、ね。ですから例えば私の性根の中にです、とてもそんなに断りに行くと言う様な事はとてもできもしなかったし、また恐らくもうよかよかでほうからかしとったに違いはない様な私の性格だったけれども、神様はその当時にです私の人格を認めて下さり又は、高めて下さる事の為に、ああいう修行をさせて下さったんだなあと言う事を今にして思います。
皆さん不都合ができておるとか言いに行きにくかろうばってん、行かにゃいかんです。ね、そりゃあもうその方のから敬うてもらうとか、その日その人から認められることじゃあないです。ね、その事が神様から認めていただく人格、いわゆる人徳という事になるのです。そこでです若い者でも役に立つ人は何となく人が敬うようになる。ね、ここんところに(私くしや?)信心でいう御用ですね。
お役に立ちたいお役に立ちたいという願い、神様も喜び頂ける様な、ね、人間どうし、いわゆる世の為人の為なんですね。(に)、お役に立つお役に立ちたい立ちたいという、念願を燃やさせてもろうて、お役に立たせて頂きたいというその事がです、段々敬うもらえるもとに元にもなりますけれども、ならこれとは反対のことを一つ思うてみて、お役に立ちたい、お役に立ちたいと口で祈り願いながら、お役に立たんどころではなくて、かえってお邪魔になっておる事はないかと言う事なんです。
世間様のお邪魔になっておる様な事はないかと。人様のかえってご厄介になっておる事はないか。いうならば神様の働きのお邪魔になっておる様な事はないかというふうに、私は思うてみなければいけない。役に立つ者は何とはなしに人が段々敬うてくれる様になるとこう(言う)人格が、いわゆる人徳がついて来る訳です。役に立たんどころか、それがお邪魔になる事になるとですね、どういう事になるでしょうかね。
さっきの銀行の話じゃないけど、一人の不都合不行き届きの人があるために、ね、例えば銀行事務なら銀行事務、事務的にもです困る事になる銀行が。ですから断られる訳です。まあ銀行から断られるぐらいなら良いけれど、ね、神様から断られるようにどんなったら大変ですからねえ。ちったまあ無理のきく間は良かうちです。神様にいくら無理を言うても無理を願うても、ビクとん(も)しなさらん。もうあれが言う事は聞かん。聞かれん。ね、そういう例えば難儀をお互いが感ずる時にです。
どこに神様に対する、不都合不行き届きがあったであろうか、又は人に対して世間に対してでも、ね、ああいう不都合不行き届きが、こういういわばいくら願うても願うても断られるような結果になってくるものであることを一つ探らせてもらい、分からせてもろうて、ね、そこんところのお詫びをです、本気で詫びにも行きにくかろうけれども、ね、私はそれこそ恥を偲んででも詫びなければいけないと私は思うですね。
信心する者はよう心がけておるがよい。神様の方には祈る、事だけでは簡単。どこどこに、行か(にんゃ)ならんばってんか、自分が行こうごとなかと、神様御無礼ですけれども行きませんからよろしくお願いします。ね、と言うようにですね、まるきり実意をいわゆる不都合不行き届きをそんままさらけ出しに、神様に願う様な事でいわゆる、神徳が受けられるはずはありませんよね。
いかに神徳を受けたいというてもですね、例えて昨日はそれを授与とこう頂きましたですね。授けられるものと頂いたですね。そりゃそうでしょうが皆さん、ね、例えば皆勤するから皆勤賞がもらえるんですよ。授与されるのですよ。努力するから努力賞がもらえるのですよ。努力もせずに努力賞を下さい。皆勤もせずして時々どん通よをといてから、皆勤賞を下さいち言ったって下さるはずはないですよね。
いわゆる不都合不行き届きがあったんでは、おかげにならん。私は今日はもうてっきりこの、私共がですね神様に対しては勿論ですけれども、人様に対して世間様にも対してでも、不都合不行き届きのあっておる、もうそれは行きにくうもあろう恥ずかしいかもしれん、会えばかえって悪う言われるかも解らん。けれどもそういうところをですね、いちいち回ってというとちょっとおかしいですけれども。
本当に一番行きにくいごたる所へですたい、私はやらせて頂いてそれこそ私の長男に、二十年前のその話じゃないけれども、ね、そこん所を私は一つ詫びて、ね、今度いっぺんお願い(させていただく?)、と。例えば今日はそういうなら願いを私はさせて頂く、頂きますから、ね、愈々銀行から愈々断を下された。もうきっぱり断られたけれども、ね、もういっぺんと言うて詫びに行った所に繋がりがまた出来た様にです。
私共の不都合不行き届きをもういっぺん、色々にこうやって私は今日は、金銭貸借とかそういうことだけに、もうこうしぼりましたけれどもね、まだいろんな意味でやっぱ不都合不行き届きがというのはあるのですよ。ね。自分のはしたない態度が、相手の心を傷付けたり、自分の言うた事が相手に恐い思いをさせたり、ま色々ありましょう。それを私は封印するとなおざり、それをもうよかよか主義にしてするという事はですね、私は今日の御理解を頂いておったら許されんと思うです。
ここんところをです一つ、勿論不都合不行き届きのない様に心がける事は勿論、けれども不都合不行き届きがあっておることを自分で知っておりながら、それをなおざりにしておることは愈々不都合不行き届き。不都合である。不都合千万。と相手に愈々怒りをかう事になりましょうから、ね、そういうところを本気で私は詫びていく修行、それを相手の人はそれに対して許すも許さんも言わんかもしれん。
返って又腹かくかもしれん。けれども私はその修行がです私は、ね、一週間一週間と例えばこう口約束をしておる事が、不履行になりますからその事をやっぱりお詫びに行ったように、そしてそれはそん時にはお詫びは適わなかった、ね。けれども矢張りもう一番最後にはです。もう大坪さんもうあんたのしらごつはもうもう聞き飽いたと。言われたそのまいっちょ向こうにはですね、もう私のそのいわば一生懸命その、ね、
何日ごしに断りにいくそれを、ま、認めて下さったわけでしょう。もう本当に困っとるばいのとやっぱ思われたでしょう。こればっもう嘘というだけ、には、もう、あれなかったんでしょうかね、「もう良かっち」言うて最後に言われました。もう来てもらわんでんよかて、ね、いうなら払える時に払うてくれ、もう来んでもよかと向こうから言われ。おかげでそれっきり行きませんでしたけれどね。
勿論おかげを頂いてその場において払わせて頂きましたがね。まあこれは余談ですけれども、それを払いにいった時には(ですね)、もう向こうがそれを受けとられませんでした。もう、もう私が椛目でおかげ頂いておる頃でしたから。もう大変私がだんだんおかげ頂いておることを大変喜んでくださった。お金を受け取られませんでしたから、他の物で、いわゆるあのお礼をさせて頂きましたけれどね。
けどもその事がですね、そういう事が、私は今日それをこう改めて思うんですね。はあ不都合不行き届きができておる、それをねもう本当にもう相手が納得のいくところまで、この詫びていくいっておる。それもう実に大変な難儀であった。そりゃ苦しいことであった。本当にあの矢張りその人の家の前に行ったら、もう足が前には進まんごと苦しかっ、事であった。そりゃ本当ですよ。
皆さんがそげんまで断りに行ったことがなかからしらん、もう断り行くぐらいなこと問題はなかです。でもそこんところが何回も何回もね、嘘、嘘ばぁっかりだから、度々が。ね、それこそそりゃあもう本当にもう、人間にいうようなこっちゃあない、それこそえげつのうえげつのう、もう、いわば、言われげ行かにゃあならんとじゃけんで、こげん、この、何ちゅうか、いわゆる情けない事はないです。
ね、けれどもそれが私は、私の例えば過去において不都合不行き届きがたくさんあっとろうけれどもです、そういうような事によってです、不都合不行き届きのお詫びが叶うておったのではなかろうかとこう思うです。ね、ですからもうそれはどこまでも、信心でいうところの人格。ね、だからそこそこ一気にそして焦点をしぼって修行させて頂く事によってです、ね、他の不都合不行き届きもあったろうけれども、それを、ま、許されておったんじゃなかろうかというふうに、ま、思うのです。
若い者でも役に立つ人は何となく人が敬うようになる。ね、だから例えばをとっておっても人の、ね、役に立つどころか、かえって邪魔になるような事であっては、敬うてくれるといったような事はまずなくなる。勿論神様が認めなさいません。ね、お役に立ちたいと願いながら、お役に立つどころか返って神様のお邪魔になっておるような事はないかということをいっぺん深く反省してみてですね。
同時にはああれが不都合であろう、不行き届きであったろうと思うところをです、今日はその徹底詫びていこう。そこから例えばね、あらためて人徳を受けていく、人格信心で言う人格を作っていくという信心のそれを修行になるとするなら、有り難い事また詫びていく事によってそこに了解ができるなら、もういよいよ有り難い事。ね、それを行きにくいから、ね、恥ずかしいから、でなおざりにしてはです、いわゆる信心にはならない。そこんところを、今日特に焦点を置きたいと思うんですよね。
どうぞ。